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協会の歴史

協会設立まで

 戦前の川崎市内で登山活動が組織的に行われた記録はあまりない。川崎山岳会が昭和8年に創立されて活動を始めたほか、日本鋼管川崎製鉄所、その他の数社内に山岳部があり、集団としての組織的な登山活動を行っていたが、登山者の多くは未組織であった。これらの団体は丹沢山塊や奥多摩などの近郊の山々が主な活動の場であったが、特に川崎山岳会は開拓期の谷川岳一ノ倉沢や丹沢の沢の紹介などに顕著な功績を残している。

 太平洋戦争中は、登山界も組織的活動をほとんど中断していたが、戦後いち早く再建された川崎市内の山岳会や山岳部の連合体をつくろうという話が、天野誠吉氏(川崎山岳会)らの間でもちあがったのは昭和22年12月であった。日本の登山界にあっても「日本登山団体連合会」が組織されていたが、県・市という行政単位の組織でなかったため、国体の参加権の問題等を解決するため新たに「全日本山岳連盟」の結成の気運が起きていた。これらとは関係なく、「神奈川県スキー連盟」がすでに結成されていたし、川崎市でも「川崎スキー協会」ができたばかりであり、加盟は7団体ぐらいであったが、川崎スキークラブ以外はほとんどが職域のスキー山岳部であった。

 このような状況において、山岳協会の発起人達は、発足準備段階であった川崎市体育協会を訪れ、新規に山岳協会を設立する趣旨を説明し、公認団体としての認定を要請した。しかし、市体育協会から、とりあえずスキー協会に加盟するように、との指導が成され、また、スキー協会副会長丸山吉次郎氏らの理解と尽力により昭和23年3月、川崎山岳会、富士電機山岳部ほか2団体が正式に川崎スキー協会の加盟団体となった。これが市内山岳団体の共同組織化の始まりである。

 スキー協会の中ではスキーと山岳が分科会に分かれた二本立ての運営であり、上部団体が「神奈川県スキー山岳連盟」の名称であったこともあり、昭和23年12月にスキー協会は発展的な改称をして、「川崎スキー山岳協会」の名称のもとに川崎市体育協会の加盟団体となった。このときの会長は正木英雄氏(日本鋼管川崎製鉄所体育会スキー山岳会)で、加盟団体数は12であった。

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山岳協会としての独立まで

 川崎スキー山岳協会は、この後6年間、スキーと山岳の共同で事業を行うようになった。昭和24年4月、天野誠吉氏が山岳関係者として初めて神奈川県スキー山岳連盟の常任理事に就任している。

 昭和26年6月、初めての市民ハイキングを尾瀬で実施した。貸し切りバスの使用はこの頃としては画期的なことであった。昭和27年6月14〜15日、第1回市民登山を谷川岳で実施。参加者60名。同年10月、協会員による第1回集中登山を谷川岳で実施。参加者50名。

 昭和28年7月24〜25日、市民富士登山を実施。市民参加者150名、リーダ20名、バス4台を連ねての大盛況であった。

 このようにして、スキー山岳協会の中で山岳の活動を行ってきたが、折しも、第10回国民体育大会が神奈川県で実施されることとなり、山岳部門の開催も決定した。このため、神奈川県スキー山岳連盟も昭和29年4月2日を期してスキー連盟と山岳連盟に分離することになった。これに続いて川崎スキー山岳協会も分離・解散して、山岳部門が川崎山岳協会として独立したのは昭和29年6月10日で、ただちに川崎市体育協会に加盟している。山岳協会の加盟団体は次の14団体であった。川崎山岳会、川崎スキークラブ、昭和電工スキー山岳部、川崎市役所山岳会、ふそう山岳会、コロンビア山岳会、日本鋼管川崎製鉄所体育会スキー山岳会、法政二高体育会山岳部、県立川崎高校山岳部、東芝山岳会マツダ支部、いすゞ自動車スキー山岳部、富士電機山岳部、東芝山岳会小向支部、法政二工山岳部。

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草創期から発展期へ

 新発足した山岳協会の最初の事業は昭和29年7月8日、中央公民館で行われた市教育委員会、スキー協会との共催の夏山映画会であった。912名の入場者を集め、山岳映画5本(16mm)が上映された。この年7月20日に、山岳協会「会報」第1号が創刊された。昭和29年度にはこの他に、市民富士登山、市民谷川岳登山、加盟団体懇親塔ヶ岳集中登山、スキーを迎える映画会(スキー協会と共催)、県立尊仏山荘資材荷上げ、第9回国体(大雪山)参加、登山講習会などの事業が行われ、さらに、次の年度には市民アルプス登山、岩登り技術講習会、冬山実地講習会などが加わり、創立当初から意欲的であった。

 昭和30年10月30日〜11月3日にかけて、第10回国民体育大会が神奈川県で開催され、山岳競技は丹沢山塊が会場となった。県岳連の主管のもとに、川崎は輸送班を担当し、24名がこれに参画、別にAコース付きとして20名、本部役員として1名、合計45名が参加した。

 このようにして、協会の基盤も確固としたものになるとともに、加盟団体も次第に増え、昭和30年12月には20団体に、さらに昭和31年4月には25団体にまで急増している。

 昭和31年5月9日の日本山岳会のマナスル初登頂以来、登山ブームが到来し、一般市民からのハイキングや登山の催しの要請も多く、市民対象事業が毎年継続して行われた。北アルプス燕岳〜槍ヶ岳、白馬岳などの高山も目的地となった。

 昭和35年、正木会長は健康上の理由で退任、天野誠吉氏が会長になった。昭和35年から40年にかけての5年間は理事長等の役員がめまぐるしく変わり、協会の活動も停滞期であった。

 昭和41年、伊藤茂次氏(川崎市役所山岳会)が理事長に就任し、山岳協会は再び活発化した。しばらく休止していた春・秋の市民ハイキングも再開され、また昭和42年初夏には初めての市民登山教室が開催された。

 昭和45年、柏木進一氏(川崎ヨチヨチ山岳会)が会長に着任、左澤重明氏(川崎ヨチヨチ山岳会)が理事長となり、市民対象事業、協会員対象事業ともにさらに活発化した。新入会員のための登山講座、中級レベル会員のための登山セミナー、協会員の交流を目的とした山岳協会まつりなどの事業が新設された。

 昭和47年5月には、日本赤十字社の救急員養成講習会が協会の主催で開かれ、各加盟団体から60名が連日7日間、延べ30時間の受講をした。

 昭和48年4月、協会のシンボル・マークが制定され、協会旗が作られた。

 同年10月5日、山岳協会創立20周年記念式典が川崎さいか屋8階大食堂で開催され、各界各層の100余名の出席を得た。この時点における加盟団体数は37(一般11、職域26)であった。

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安定期から一時的衰退期へ

 昭和49年、天野誠吉前会長が神奈川県山岳連盟会長に推挙され、会長をバックアップすべく、協会からは県岳連に5名の常任理事を送り込んだ。市民ハイキング、市民登山を中心とした市民対象事業も隆盛をきわめ、役員たちは多忙な時期でもあった。

 昭和50年12月には、神奈川県山岳連盟のヒマラヤ・ローツェ登山隊が出発した。51年の登山活動は敗退に終わったが、協会からは4名の隊員が参加した。協会の加盟団体による海外遠征も盛んになってきて、すでに関東螢雪山岳同志会や川崎橘山想会の台湾、韓国、アラスカなどへの遠征があったが、昭和52年2月、川崎山岳会が加盟団体として初めて単独でヒマラヤ(チューレン・ヒマール)に登山隊を送り出した。残念ながら登頂には至らなかった。昭和52年に協会に加盟したスビダーニエ同人は同年7〜8月に中部ヒンズークシュの5,578mの無名峰に初登頂し、コーイ・ダラーツと名付けた。同会はその後、毎年のようにヒマラヤなどに遠征隊を送っていたが、8,000m峰のナンガパルバットの登頂に成功するのは、10年後の昭和62年7月21日である。

 昭和49年より連続4年間、毎年のように発生した8件の遭難死亡事故は、協会未曾有の悲しい出来事であった。協会では昭和52年より事故防止対策連絡協議会を設け、各種研究テーマに協会を挙げて取り組むようになった。

 この頃は、すでに毎年の市民対象事業、協会員対象事業も恒例となり、協会も安定した運営が成されるようになっていた。昭和53年には、市民登山教室に初めて沢登り編を導入して、11月3〜5日に丹沢勘七の沢を遡行した。

 昭和54年3月23日には創立25周年記念映画会が川崎東映で開催され、入場者数は280名であった。

 昭和55年1月18日、永らく協会の実務面のみならず、精神的中心でもあられた前会長天野誠吉氏が逝去された。

 話しは遡るが、昭和49年末に起きた石油ショックに端を発した経済不況は、山岳協会にも深刻な影響を与えた。会社の新規従業員採用手控えから職域団体の部員数の減少や部員の高齢化が起き、活動が低迷し始めた。また、工場移転などもあり、協会草創期から活躍してきた職域の名門山岳部が次々と廃部を余儀なくされ、加盟団体数も昭和51年度の40をピークとして減少を始めていた。

 昭和57年度、永らく理事長を勤めてきた左澤重明氏は川崎市体育協会の要職に専任し、副会長として大局的に山岳協会を眺めることになった。後任の理事長には大箭俊介氏(川崎市役所山岳会)が就任し、常任理事にも多くの若手中堅が新任され、協会まつりや登山技術講習会の復活等、協会の再活性化に努めた。

 昭和59年6月10日、創立30周年記念集中登山を丹沢塔の岳で実施、同年11月11日には記念祝賀式典を川崎日航ホテルで開催し、100余名の出席者を得た。この時点での加盟団体数は30(一般11、職域19)に減っていた。

 この年も終わろうとする12月30日、悲劇が起きた。正月合宿で穂高明神岳に入っていた川崎市役所山岳会6名の隊員を雪崩が襲い、2名が死亡、3名が重軽傷、協会の総務担当の常任理事田山義信氏が行方不明となる惨事であった。すぐさま救助隊を出したが、田山氏を見つけるに至らず、協会からも13名が参加した翌60年5月連休の第5次捜索隊も甲斐が無く、5月18日になってようやく田山氏の遺体が雪の下より見つかった。

 昭和62年9月13〜15日に第26回全日本登山体育大会が丹沢山塊で開かれ、協会員も多数参加し、全国から集まった岳人と交友を深めた。

 平成元年11月5日、創立35周年記念式典を川崎こみや「ラフォーリ」で開催し、93名が出席した。この時点の加盟団体数は20(一般8、職域12)である。同年11月23日、記念登山を三ッ峠で行い、市民を含め138名が参加した。

 平成4年5月、協会参与の増子春雄氏(東芝山岳会)が神奈川県岳連副会長を退任し、代って協会理事長の大箭俊介氏が県岳連副会長に就任した。  

 同年9月には、協会副会長左澤重明氏が神奈川県体育功労者表彰を受賞した。

 平成6年8月6日、川崎山岳協会を24年の長きにわたり、会長として指導されてこられた柏木進一氏が急逝された。急遽、副会長であった天野春男氏(川崎山岳会)が会長代行に就任した。天野氏は次年度に正式に会長に選任された。

 平成6年11月27日、創立40周年記念式典を川崎日航ホテルにて挙行した。この時点の加盟団体数は14(一般6、職域8)である。40周年記念行事として、次のことを行っている。柏木美香子氏(故柏木会長夫人)、伊藤茂次氏(協会参与、元理事長)に感謝状贈呈。記念誌発行。記念山行(11月22〜23日、八海山、参加者51名)。加盟団体による神奈川県40の山と沢の分担山行(7〜11月)。

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市民登山の普及へ

 川崎市体育協会の法人化に伴い、当協会も現行の規約・組織で合わないところは修正しなければならなくなった。平成8年5月の総会において、協会の名称を「川崎山岳協会」から「川崎市山岳協会」に変更するとともに、規約の見直しを行い、大改訂を実施した。市体協との共催事業は年4度の市民ハイキングまたは登山である。初春の日帰りハイキング、春と秋の1泊2日の登山、夏の2泊3日のアルプス方面を主体とした登山により、登山に興味を持つ市民の期待に応えている。指導者は市民約10名に1名の割合で付け、そのきめ細かい対応は定評のあるところである。その他にも市民対象の協会主催事業として、県の山岳スポーツセンターを利用しての机上講習と初級沢登りなどの市民登山教室、市民登山出身者を対象とした年約4回の中級の登山交流会がある。

 平成8年10月には、神奈川県岳連の副会長として山岳界の指導をしてこられた大箭俊介理事長が神奈川県体育功労者表彰を受賞された。めでたいことばかりでなく悲しいこともあった。協会の長老であられた参与の山本雅三氏(川崎市役所山岳会)が平成6年10月22日に、また、参与の伊藤茂次氏(川崎市役所山岳会)が平成7年12月28日にそれぞれ他界された。

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国体へ組織をあげて協力へ

 平成10年の第53回国民体育大会神奈川大会の山岳競技のクライミング会場として使用するべく、平成9年7月13日に丹沢大倉に県立山岳スポーツセンターが開所した。また、その前に永年にわたって我々神奈川県の岳人の心の拠り所であった丹沢二俣の県立登山訓練所が3月末で閉所され、30日のお別れ会には多くの山仲間が集った。

 なお、県立山岳スポーツセンターの非常勤職員として協会参与増子春雄氏が採用され、以降、平成13年3月の退職まで我々岳人の面倒を見て下さった。

 ここで、少し寄り道して増子氏について述べておきたい。増子氏は東芝総合研究所の研究者であり、山に関しては国体関係で全国的に飛び回り、岳人の友人・知己が至る所にいる方であるが、何よりも有名なのは富士山の連続登頂であり、ギネスブックにも載っている。昭和53年12月から毎月1回は登頂するという記録が始まり、昭和61年12月の連続97ヶ月登頂を果たし、100ヶ月ももうすぐというときに通勤途上のけがにより、連続が途絶えた。しかし、2ヶ月の中断ののち連続登頂を再開し、平成10年元旦には連続131ヶ月、さらに翌年には連続12年の元旦登頂を果たしている。その後も連続月にこだわらずに富士山に登っているが、今は自家用車で全国を巡って山に登るという山仙人のような生活を送っている。

 国体山岳競技に対しては県岳連としても大会の4年前頃より、準備を始めていたが、当協会としても第49回愛知大会より役員の予定メンバーを国体視察に派遣した。平成8年には役員体制が決まった。本部役員として、運営の中心となる総務部の長を相良忠麿氏(川崎ヨチヨチ山岳会)、自衛隊による通信の協力隊がなくなった通信部の長を矢幡明樹氏(東芝山岳会)が勤めることになり、協会のメンバーもこの二つの部に集中して投入した。大会3年前から定期的な会議が開かれ準備が進められて行った。平成8年7月26〜28日には第51回国民体育大会山岳競技関東ブロック大会が第53回国体の会場に予定されている秦野市と藤野町で開かれ、本大会の役員と同じメンバーで運営に携わった。また、平成10年5月8〜10日の国体リハーサル大会により、運営のチェックを行い、修正の上、同年10月24〜28日の本大会に望んだ。本大会では山岳競技で天皇杯、皇后杯の獲得という選手団の活躍とともに、運営の方も大きな失敗もなく、成功裏に大会を終了することができた。当協会から派遣された役員は次のとおりである。県内総務に天野会長、増子参与、大箭理事長の3名、総務部に相良部長等3名、競技部記録担当に2名、通信部および行動役員通信担当に矢幡部長等15名、審判および行動役員に7名の計30名である。

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県岳連と協会の創立50周年に向けて

 国体が成功裏に終了したことにより、永らく県岳連を率いてこられた吉田文夫氏が会長を任期半ばで勇退され、そのあとを副会長であられた山本芳夫氏が会長に就任された。平成11年度の岳連の役員改選により、大箭俊介氏(川崎市役所山岳会)が岳連副会長の職を辞され、代わって相良忠麿氏(川崎ヨチヨチ山岳会)が副会長に就任された。その後、相良氏は日本山岳協会の常務理事としても「登山月報」の編集にも携わっている。

 平成11年に協会は創立45周年目を迎えた。5年後の50周年に向けての中間ということで、6月13日(日)12時より川崎グランドホテル富士の間で、記念祝典をこじんまりと開催した。県岳連から吉田前会長他の出席を頂いた。また、市民登山の常連参加者からの出席者も40名近く、出席者は計84名。また、45周年記念誌も発行した。

 神奈川国体の数年前から各地にクライミング・ボードが設置され、山男たちも人工壁に親しみ始めていた。山男たちは最初は岩登りの訓練の一部として始めたものと思われるが、その競技性に魅せられ、毎週人工ボードに通う若人も出てきた。このような状況を考え、国体の翌年の平成11年5月23日に創立45周年記念事業の一環としてクライミング大会を開催した。大会前夜の懇親会も合わせて多いに盛り上がった。そして、平成12年の第2回大会より協会まつりと合わせてクライミング大会を恒例として実施することになった。

 ここで、協会まつりを振り返ってみたい。協会まつりは協会員の親睦を目的として、昭和46年2月に金時山で第1回が実施された。参加者は51名を数えた。その後、近辺の山で開いていたが、やがて、丹沢の大倉や二俣あたりでテントを張って、飲み会や各会の余興大会などを行っていた。

 最初は多くの参加者を集めていた協会まつりも徐々に人数が減り、平成に入ると10人程度になっていた。そこで、協会まつりを山での市民と協会員の交流の場として、平成4年、金峰山で約50名の参加者で実施した。毎年、市民と協会員での山行が協会まつりとして恒例となった。しかし、ここでも協会員の参加はわずかな人数であり、協会員の参加者がリーダを勤め、実質的には市民登山と変わりなかった。この現状に協会員の中から「本当に協会員による、協会員のための協会まつりを」という声も強くなり、平成12年よりクライミング大会と合わせて協会まつりを実施するようになり、現在に至っている。

 さて、県岳連と同様に協会でも大きな人事の変更があった。理事長、副会長として協会の先頭にたって指導に当たってこられた左澤重明氏(川崎ヨチヨチ山岳会)が平成12年度の総会において参与に退き、副会長には大箭俊介氏(川崎市役所山岳会)が理事長兼務で就任した。

 続いて、平成14年度の総会において、副会長、理事長の人事の大変更を行った。天野会長のもと、副会長には大箭俊介氏、田中孝根氏(川崎山岳会)、理事長には矢幡明樹氏(東芝山岳会)が就任した。

 大箭副会長には普及および渉外を統括、田中副会長には指導および遭難対策を統括して貰うことにより、会長のもとに理事長を含め3頭運営体制をとることとした。

 県岳連および協会も設立50周年を迎えることになった。県岳連は平成15年度を50周年記念行事の年に選び、協会は平成16年度を記念行事の年に選んだ。

 設立は県岳連・協会ともに昭和29年であるが、50周年目を県岳連はかぞえ年で数え、協会は満で数えたので記念行事が1年ずれたのであるが、このため岳連と教会の行事計画も分散され、やり易くなった。

 県岳連の最初の記念行事は平成14年11月30日から12月1日にかけて催された尾関廣もうしもうし祭であった。全国から多くの岳人を迎えて、秦野商工会議所会館での前夜祭、二俣の尾関氏胸像前での本祭ともに盛況であった。

 平成15年度は記念行事の一環として、各山岳協会、各山岳会による丹沢の沢の分担遡行が実施された。川崎市山岳協会は玄倉川とその周辺の沢を担当し、11の沢と畦ヶ丸に記録を残した。これらの記録は創立50周年記念史「山っていいな」に掲載されている。なお、この記念史には田中孝根副会長が編集委員長として力を注いだ。

 また、記念行事の一環である清掃登山が9月7日に花立周辺で行われ、協会より11名が参加し、ガラス瓶のかけら等を大量に運び降ろした。

 平成16年2月15日に神奈川県山岳連盟創立50周年記念式典および祝賀会がオリエントホテル横浜開洋亭で開かれた。約250名の出席者で、協会からは30名が出席した。また、式典で功績者の表彰があったが、協会からは優秀選手賞1名、功労賞29名が表彰された。

 平成16年度は協会の50周年記念行事の年である。15年度より実行委員会を立ち上げ、委員長に田中副会長が就任、式典、記念行事、記念誌の分科会に分かれて、企画を煮詰めた。記念行事のメインは協会祭り兼クライミング大会、塔ヶ岳集中登山および山岳写真展である。また、恒例の夏山技術交流会も記念行事を謳うことにした。

 最初の記念行事は第33回川崎市山岳協会まつり兼第6回クライミング大会である。平成16年5月8・9日に県立山岳スポーツセンターで実施。

 40名以上の参加、選手は22名であった。新しい試みとして、団体戦も取り入れ、5チームできたが、NECと東芝による「電機連合」なるチームもその場で構成され、非常に楽しい大会となった。

 6月12・13日に懇親会と塔ヶ岳集中登山を実施した。12日夕方、丹沢戸沢キャンプ場に各会が集合し、多いに飲み、食い、歌い懇親を深めた。集まったのは6団体23名。夜半から豪雨が始まったが、テントの中で遅くまで話しが続いた。翌13朝、まだときどき強い雨があったので、集中登山では沢を登るパーティはなく、半数ほどの人数が天神尾根、書策新道、政次郎尾根をたどって頂上を目指した。雨のため、当日登頂の人がいるのかどうか心配されたが、12時30分までに8団体30名が集合し、霧の中で記念写真を撮った。

 9月11・12日に夏山技術交流会が巻機山米子沢で開かれた。5団体32名が集まり、スケールの大きい沢登を楽しんだ。12日夜のキャンプ場での懇親会は多いに盛り上がった。

 以下の二つの記念行事は予定の記事である。

 山岳写真展は中原市民ギャラリーで10月29日から11月4日のあいだ行われる。写真展の出展は一般の市民にも開放される。展示は四つのコーナーに分かれる。第1のコーナーは加盟団体紹介コーナーである。展示は各会に任される。第2と第3のコーナーは市民登山参加者と協会員の自慢の写真のコーナーである。残念ながら、賞は出さない。第4は懐かしい写真コーナーであり、昔の市民登山や協会まつりの写真を復元して展示する。協会の役員達の若い頃の活動を見てとれる。現在は初老の会員達の若さあふれる顔つきには微笑を禁じえないであろう。

 11月14日には川崎市山岳協会創立50周年記念式典および祝賀会が川崎日航ホテルで行われる。会員出席者は約60名を予定、その他に川崎市や市体育協会の関係者、県岳連の幹部や他の山岳協会の仲間、それに市民登山の参加者の中から有志の方などがご出席頂けると思われ、約130名ほどの祝賀会になるであろう。また、感謝状を次の方々に贈る。永年、協会の重鎮として貢献して下さった参与の左澤重明氏、増子春雄氏、市民対象事業の保険でお世話になった尾崎樹仙氏、また、協会事業で施設を使わせて頂いた県立山岳スポーツセンター殿。

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21世紀の課題

 当協会ばかりでなく、日本の山岳界全体の問題であるが、問題点の第一には登山者の高齢化、第二には未組織登山者の増加をあげねばならないであろう。そして、この二つの問題は互い関連している。現在、登山に興味を持つ青年層は少なく、山岳会・部に新人として入ってくる若人は稀であり、現役引退する高齢の会員・部員の人員を補充することもできない。徐々に組織が痩せていき、ついには解散のやむなきに至った会・部もこの10年の間に数多くある。一方、中高年層には登山ブームがあり、百名山などは50歳代以上の女性でかってないにぎわいを見せている。しかし、これらの登山者は殆どが組織に加入しておらず、登山の基本技術やマナーを知らない者も多い。

我々が緊急事態として考えなければならないのは、若手の入部による会・部の活性化である。中堅部員がいなくなる前に若手部員を入れなければ、後継者の育成に齟齬をきたすことになる。幸いなことに、クライミング競技に興味をもつ若手も多く、これらの新人が山行に参加することにより、立派な岳人に育っていく例も見られるようになってきた。しかし、若手の指導に関しては個別の会ですべてを実施できるところは少なくなってきており、各会で協力して次世代のリーダを育てるようなことを考えていかねばならない。複数の会が協力して、確保の研修会を行ったり、また、合同の山行を計画するなどの嬉しい活動も増えている。協会としてもこの動きをさらに進めるための事業も企画していきたい。

次に、中高年登山者の組織化の問題がある。中高年の初心者を受け入れる山岳会は数少ない。彼らを育成しても、次の指導者にはなり得ず、会の実力アップにはつながらないからである。このような状況で中・高年齢の一般登山者の組織化とレベルアップを如何に図るかが課題になろう。過去においても協会のアドバイサリー・メンバーのもとに市民登山の有志からなる登山の同好会をつくったこともあったが、一般登山者の組織化の核となるまでには至らなかった。協会としても市民登山教室や中級の登山交流会等により、一般市民への登山の啓蒙に努めながら、一般登山者の中から自分たちの山行を企画し、リードしていける人を育てて行かなくてはならない。同時に、協会への加入を団体に限ることなく、個人にも門を開くことにより、技術講習会などの協会の事業への参加に道を付け、一般の中高年登山者も協会に取り込むことも考えて行かねばならないであろう。

本原稿の由来: 協会設立当時の経緯は故天野誠吉氏が「事務局」通信に寄稿された記事を基としている。その記事をベースに発展期の記事を追加して、左澤重明氏が川崎市体育協会創立30周年(昭和55年)を記念して発行された「川崎市体育協会史」のために執筆されている。さらに、市体協創立50周年記念誌用に矢幡明樹が改訂・加筆した。本原稿はこれを基に、昔のはなしは天野春男会長よりお借りした古い資料を参考として追加し、また、最近の情勢も鑑み、矢幡が改訂・加筆した。文責は矢幡にある。)

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